「VIBRATO MUSIC STUDIO」と「ATSUSHI」について
このサイトを立ち上げたのも、スタジオ防音室を作ったのも、誰に強制されたわけでもなく、完全趣味のゆるふわなので、なんの参考にもならないかもしれません(笑)が、サイトの目的や意味が分からなさすぎるのもアレなので、苦手なブログではありますが、取り留めなく書いていこうと思います。この時点で興味なければ、去っていただいて結構です。おそらく有益なことは何もないので。笑
(1)今後一生かけて、自分の好きな音楽の活動をしていきたい
(2)ずっと満足に作れなかった楽曲を、1曲でもいいから作りたい
(3)ドラムの演奏が楽しいので、今後も活動内容の報告をしていきたい
(4)上記を踏まえても踏まえなくても(笑)、音楽仲間を増やしていきたい
(5)音楽仲間と一緒にスタジオで遊びたい
(6)憧れのアーティストさんをスタジオへ招待したい(単なる願望。笑)
現段階では、こんなようなことを柱に活動報告をしていきます。
そして人生ボケボケしてて、すっかりおっさんになってしまった「ATSUSHI」のこれまでの「音楽との関わり合い」の浅くて薄っぺらいお話を以下に長々と書いていきます。笑
一番古い記憶(めちゃ遡るな。笑)は、ドクタースランプアラレちゃんのエンディングテーマ曲のアラレちゃん音頭?に合わせて、おもちゃの小さな太鼓を叩いていたこと。それと幼稚園の卒園遠足で行った名古屋港にて「思い出のアルバム」を合唱したこと。思い出のアルバムなんかは、人生初の音楽のエモさみたいなものを感じた時だったのかなぁと思います。それと親から映画をよく見せられていたんですが、テーマ曲に興味をもったものの音源がなかったので、ラジカセを使い自分の声で歌って録音する(笑)少し変な子供でした。インディージョーンズのテーマ曲など。
父親がお金もないのにやたらステレオ(真空管アンプなど)に拘る(こういうところは似たんだなぁと。笑)人で、クラシックやビートルズなどを好んで聴いていて、「配線を変えた」だの「電源のケーブルを変えた」だの、何か変える度に「音楽そのもの」よりも「音」に焦点をあてて聴かされ、音の違いについて半ば強制的に意見を求められて育ちました。その後に必要な音楽理論は全く知らず…。
そんな親父拘りのステレオで当時のメジャーどころで言えば「チェッカーズ」を、初めて自分の小遣いで買ったCDアルバムとして聴いていた記憶があります。少し歳の離れた姉の影響で「大江千里」もよく聴きました。小学生の中・高学年生になると、大してやりたくもない野球部に所属(笑)し、シーズンが終わったあたりからエレキギターに興味をもった記憶があります。でもすぐに買ってもらえるわけでもなく、親父が学生時代にバンドをやっていた時に使っていた鈴木バイオリンのアコースティックギターとウッドベースが残っていたので、アコギで「ペキペキ」鳴らしてエレキっぽい弾き方の真似をしていました。父親からは「Fコードが握れるようになったらエレキを買ってやる」と言われたものの、結局翌年買ってくれたのは親父の1つ歳上の伯父さんでした。笑
(Fコードの練習はあまり苦労した覚えは無く、かと言って現在もギター演奏自体が特別上手いというわけではありません。笑)
小学生の頃は夏になると毎年お盆休みに「上高地」へキャンプへ行き、道中カーステレオから流れていたのは、当時姉が好きだった「ユニコーン」の「パニック・アタック」と「服部」でした。これがボクとユニコーン・奥田民生さんの音楽の出会い。変な曲ばかりだけど、とにかくメロディが好きだなぁと思いました。
中学に入るとバスケ部に所属(3年生が引退後、2年生がごっそりいなかったので、1年生でキャプテンになった)したものの、バンドもやりたいなぁと思い、同級生に当時ヤンキーの間で流行っていた「パンク・ロック」を教わりました。その中でも日本のパンクで「コブラ」や「ラフィン・ノーズ」にハマり、人生初のコピーバンドをやることに。初めて行ったリハスタもちょうどこの頃です。(リバプールという名前のリハスタ)
こんな頃から自宅にスタジオがあるなんて素敵!みたいな感じで淡い憧れを抱いた記憶があります。それから30年後、音楽的に何が出来るわけでもなく、実際にスタジオ防音室を作ってしまったアホなおっさんなのです。笑
高校へ入学するとやはりバスケ部に入ったものの公立高校の割には少しだけ強くて練習が忙しく、あまりちゃんとした音楽やバンド活動が出来ませんでした。でも文化祭ともなるとやはりライブがやりたくて、1年生の頃にビートルズのコピーバンド(当時は、ベース)として文化祭ライブに出場しました。2年は文化祭ライブは中止、3年になると皆進学のために勉強をしっかり始める時期なので自然に消滅。ボクと人生ナメてる同級生の友人(笑)と改めてバンドを組み、「ユニコーン」のコピーバンド(ボーカル・ギター)で、市内のライブハウスにて数回ライブをやっていました。このバンドは本当上手だったなぁ、ボク以外。笑
このバンドも高校卒業と共に自然消滅してしまうんですが、あの人たちと続けていたら、楽しいバンドライフが続いたかもしれません。その後、彼らは上京したと聞きました。
同時期に名古屋駅の周辺で友人と2人でアコースティックギターでの「流し」も少しだけやりました。(怖いパンク・ロッカーに絡まれて解散。笑)
大学入学後は軽音やらジャズ研やらありましたが、どうも自分の肌に合わず、バイト先の音楽趣味が合う友人とバンドを組むことに。彼らはメジャーな洋楽ロックからマイナーなインディーズ・アーティストまでの音楽自体には詳しいんですが、楽器演奏は初心者なのにとにかく練習しない人たち(笑)。洋楽を中心にコピーバンドをやりました。結局嫌になって1人で宅録を始めました。メディアはカセットテープやZIPディスクのMTR。1人でレディオヘッドのコピーをやって、CDに焼いて友人に配ったり(迷惑。笑)、トレコン?に応募したりしました。また、オリジナル曲を作りたいと試みるんですが、音楽理論なんてクソ食らえぐらいに思っていたのにセンスも根性もないので、満足に出来上がるはずもなく…。良い悪いは別としてたくさんリフなどは思い浮かぶのですが、曲にならない。そりゃそうです、全体から作る方法を知らないから。いきなりディティール作りから始めるので出来るものも出来ないわけなのです。百歩譲って細かいことから始めても、その後に全体の帳尻を合わせられるほどの力もなく、ただただ曲にならない「音」たちだけが量産されていくような感じ。理論を理解しているからといってちゃんとした曲が出来るのか、といったらまた別の話になりますが、少なくとも知らないよりは、それらしい曲を作るのは可能なんだろうなと思ってます。
そして、今は少しだけ音楽理論をお勉強中です。笑
この頃、家庭の事情もあり大学を辞めてしまって、フリーター生活(ボクの世代は就職氷河期でもある)で昼夜逆転の生活になり、かなり荒んでいました。絶望的な気持ちで毎朝目が覚めてた覚えがあります。数年はバイトと楽曲制作に明け暮れる毎日でしたが、自分には音楽だけをやるということが精神的にもたず、結局社会人向けのウェブデザインスクールに通い、その後ウェブデザイナーとして就職することになりました。
ご存知の方も多いかもしれませんが、ウェブサイト制作会社の黎明期なんて徹夜が当たり前(今も?笑)で音楽をやる時間なんて全くありません。ドラムが上手な後輩は、やはりバンド活動が出来ないことなどを理由に数カ月で退職してしまいました。そんな彼を少し羨ましくも思いました。
この時自分はいつかウェブデザイナーとして独立したい夢もあったので、とにかく仕事に熱中しました。そして独立する少し前ぐらいから勤め先の仕事も少しだけ楽になって、以前から使っていたDTM機材を引っ張り出して再び楽曲制作を開始。相変わらず、満足に出来ませんでしたが。笑
しかし、いざ独立!となると、お金のことが心配になり、折角揃えた機材を全て売り払うことに。結果的には売らなくても資金面ではなんの問題もなかったのですが、自分なりの仕事に対する覚悟みたいなものがありました。そして、いつかまた仕事が軌道にのって落ち着いたら音楽活動しようと心に誓いました。
その後ライフスタイルの変化や仕事が多方面(今はウェブ制作や関連業務、それ以外にも他の業種の会社を経営しています)になったのであまり音楽活動が出来なくなりました。
しかし、30代後半あたりから仕事も軌道に乗り、心に余裕がうまれ、以前から奥田民生さんやエリオットスミスさんが自分でドラムを演奏して録音していることを知っていたのがキッカケで、ドラムの練習を始めました。笑
プロの先生にもご指導いただいてることもあるのか、やればやるほど面白くなり、音楽活動や制作欲求が再燃。何回再燃しとるんや、という話。しつこいです、何も出来んくせに。でも楽しいからやりたい。一生やりたい。そんなタイミングでスタジオ防音室を作ったのも、ある意味一生かけて音楽をやってやる、の覚悟みたいなものです。音楽活動もそうですが、基本的に「雑草のような男」と揶揄されます。笑
今は相変わらず日々ドラムの練習もしつつ、オリジナルの楽曲制作にも再挑戦中です。曲が出来るかどうかなんて、もう自分にとってはあまり重要ではなく、とにかく一生かけて音楽活動していく。ただそれだけです。
あ、でも死ぬまでには納得いく曲が作りたいなぁと思ってます。雑草のような男の心は複雑です。笑
今回はこいつはなんぞやという導入部分のようなものですが、今後は現在やっている活動内容や音楽的なお勉強などもにも絡めた報告をしていけたらなぁとは思っています。

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